沖縄ウェディング プロデュース 「Love Baile(ラブバイレ)」

美言葉 8 スプートニクの恋人(下)

2010.12.09

昼と夜の境。このあいまいさが村上作品のイメージ

 スプートニクの恋人は、主人公の「ぼく」、ぼくが恋をしている「すみれ」、すみれが恋をしている「ミュウ」の3人が主な登場人物です。互いが一方通行の中で、出口のない想いが、ギリシャでの「すみれ」の失踪という形になって物語は終盤を迎えます。ここは、「ミュウ」が14年前に自分の身に起こったドッペルゲンガーの事件を回想するシーンです。

 ミュウは穏やかな声で続けた。「強くなることじたいは悪いことじゃないわね。もちろん。でも今にして思えば、わたしは自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。幸運であることに慣れすぎていて、たまたま幸運じゃない人たちについて理解しようとしなかった。健康であることに慣れすぎていて、たまたま健康ではない人たちの痛みについて理解しようとしなかった。わたしは、いろんなことがうまくいかなくて困ったり、立ちすくんでいたりする人たちを見ると、それは本人の努力が足りないだけだと考えた。不平をよく口にする人たちを、基本的には怠けものだと考えた。当時のわたしの人生観は、確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた。そしてそれについて注意してくれるような人は、まわりには一人もいなかった。17歳の時に処女をなくして、それからあとは決して少なくはない数の人と寝た。ボーイフレンドもたくさんいたし、そういう雰囲気になれば、よく知らない人と寝たことのあった。でも誰かを愛したことは―誰かを心から愛したことは一度もなかった。正直に言って、そんな余裕がなかったのよ。とにかく一流のピアニストになりたいという思いで頭がいっぱいで、まわり道や寄り道することなんて考えもしなかった。自分になにが欠けているのか、その空白に気がついたときにはもはや手遅れだった」彼女はもういちど目の前で両手を広げ、しばらく考えていた。「そういう意味では、14年前にスイスでわたしの身に起こった出来事は、ある意味ではわたし自身がつくり出したことなのかもしれないわね。ときどきそう思うの」

 人は自分を超えた想像力を働かせるのは難しいのかもしれません。調子が良くて、順風満帆なとき、人はどうしても高慢になりがちです。このミュウの独白は、幸運であるが故の無意識の傲慢さ、そしてそれゆえに周りでは傷ついている人がいるということを感じさせました。ミュウもすみれも小説の中の架空の人物なのに、そばにいる人のような存在感で私の中に明確に語りかけてくれます。これは、好きな小説に出会った時の醍醐味です。ミュウも14年前に起こった出来事を14年後の今に「ぼく」に対して話すからこそ、理解できることがあると思います。当事者では分からないこと、経験したからこそ分かること。そしてそれが「ぼく」のいう、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということなのかもしれません。

スプートニクとは、「旅の連れ合い」を意味する

 物語も終盤、「すみれ」の失踪事件がなんら進展しない中、「すみれ」の書いた文章を読んだ「ぼく」がそこから何か糸口がつかめないかを考えている場面での言葉。

 「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」とぼくは小さな声に出して言ってみた。それはぼくがいつも教室で子供たちに向かって言い聞かせていることだ。でもほんとうにそうだろうか?言葉で言うのはやさしい。でも実際にはどんな小さなことだって、自分の頭で考えるのはおそろしくむずかしい。いや、むしろ小さいことほど自分の頭で考えるのはむずかしいのかもしれない。とくにホームグランドを遠く離れているときには。すみれの夢。ミュウの分裂。

 この物語は結局明快な結末を迎えません。日本に戻ってきた「ぼく」への真夜中の電話ボックスからの「すみれ」からの電話。それは、本当に現実なのか、それとも夢なのか、希望なのか、もう一度場所を知らせる電話はかかってくるのかは小説の中には何も描かれていません。それが、若いときにはイライラして、どうなるか分からないことが嫌だったのですが、でも、あれから10年たって読み返すと、このラストこそ、「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなこと」ではないかと思えてきます。村上春樹の頭の中で考えられた明確なラストではなく、自分の頭で考えた想像力のラスト。この醍醐味が、村上作品の持つ独特の媚薬のような気がします。私は、「すみれ」は帰ってこないような気がします。あちら側とこちら側は、「1Q84」でも「海辺のカフカ」にも共通する世界観で、きっと普通に生きている人には感じられないけど、あるときすっぽり落ちてしまうまだ分からない世界があるのだろうな。世界は分かっていることよりも、分からないことのほうが何百倍も多いのだから。

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美言葉 8 スプートニクの恋人(中)

2010.12.09

村上作品に欠かすことのできない月の存在

 スプートニクの恋人の中には、思わず心惹かれる含蓄のある言葉が、あくまで小説の中の一部としてさりげなくちりばめられている。なので、嫌味っぽく重たくもならないし、小説の中の世界観としてすっと入っていける。次の文章は、年上の既婚女性である「ミュウ」と、小説家志望の若い「すみれ」とが初めて出会う場面での「ミュウ」の言葉。

 「どんなことでもそうだけれど、結局いちばん役に立つのは、自分の身体を動かし、自分のお金を払って覚えたことね。本からのできあいの知識じゃなくて」

 これは感情についても同じことが言えるような気がします。結局どんなことでも経験してみなければわからない。分かったようなつもりでいても、それはつもりであって、結局分かっていない。そして、経験して初めて、それが苦しくて嫌なことであればある程、感情面において大きな財産になりますし、その時の自分の受けた衝撃から、少しだけ人にやさしくなれるような気がします。

 次は、「すみれ」が同性である「ミュウ」に惹かれ、自分が同性愛者ではないか、そうであれば今まで男性との関係に興味が持てなかったことも説明がつくと感ずる部分で、「ぼく」がいう一言。

 「意見を言ってもいいかな?」とぼくは言った。「もちろん」「あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されないほうがましだ。つまり僕が言いたいのは、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということだよ」「覚えておくわ」とすみれは言った。そしてどちらかというと唐突に電話を切った。

 この言葉、よく覚えておきたいものです。村上春樹の小説には、今まで漠然と言葉にならずに心の中にあった物事を唐突に目の前にぱっと見せてくれる表現があったりします。このスプートニクの恋人は、それが多い気がします。あまり急いで結論に飛びつかないほうがいい、この言葉は面白いほど胸に飛び込んできた言葉です。

 この場面は、「すみれ」が「ミュウ」とヨーロッパに出張に行き、その旅先で出会った人との流れで、ギリシャの小さな島にバカンスに行った先で「すみれ」が文章をまとめるところから。

 考えてみれば、自分が知っている(と思っている)ことも、それをひとまず「知らないこと」として、文章のかたちにしてみる―それがものを書くわたしにとっての最初のルールだった。「ああ、これなら知っている。わざわざ手間暇かけて書くことないわね」と考え始めると、もうそれでおしまい。わたしはたぶんどこにも行けない。たとえば具体的に言うと、まわりにいる誰かのことを「ああ、この人のことならよく知っている。いちいち考えるまでもないや。大丈夫」と思って安心していると、わたしは(あるいはあなたは)手ひどい裏切りにあうことになるかもしれない。わたしたちがもうたっぷり知っていると思っている物事の裏には、わたしたちが知らないことが同じくらいたくさん潜んでいるのだ。理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。それが(ここだけの話だけれど)わたしのささやかな世界認識の方法である。

 この言葉に、ハッとさせられました。もしかすると、このブログを読んでくださっている方は、結婚している方や結婚間近な方が多いかと思いますが、あまりにも一緒にいるのが自然で安心しきっているがためにパートナーの優しさを当たり前のことと思ってしまっていたかも。常に、旦那さんや彼氏、友人、親、兄弟姉妹など、周りにいる大切な人を、きちんと見ること。これって、分かっているようで、結構難しいもの。そこに甘えやなれ合いが出てくると、「親しき仲にも礼儀あり」ではありませんが、ィラッとしたり、させてしまったり。こう思っているはずと、自分が思っていることを相手も思ってくれていると誤解して、取り返しのつかないことになったり。人間関係ほど大切で、難しいものはないということを考えさせられた哲学的な格言でした。

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